七ん家

ななんちを癒しの棲家に

 

スズコ満洲を語る

鞍山に生まれ哈爾賓で新婚時代を過ごし,命からがら鞍山にもどり、その後、日本に帰ってきたスズコのお話です。いつも「私の半生は波瀾万丈、自叙伝を書きたいくらい」と語ります。
 

2013年10月

ハルピンの大気汚染の映像が流れると、うちのスズコおばあちゃん(お姑さん)は、テレビの画面をみつめ『ハルピンはきれいな街だったのに』とつぶやいた。

(おばあちゃんは哈爾賓をハルビンでなくハルピンと詠んでます)

 

1926年(大正15年)

スズコは、中国の鞍山で工務店をを営む厳格な父としっかり者の母の七番目の子として生まれた。 

上の子を病気で亡くしている両親は病弱なスズコを特別、手厚い庇護のもと育てた。

そのことをスズコが説明する時にいつもすることは、耳の後ろを掻き上げ、うっすら残る傷跡を見せては、幼い頃に中耳炎を患い耳の手術をしたこと、また小学生の頃には腸チフス、猩紅熱、ジフテリアなどの伝染病に罹患するほど病弱な子だったことを懐かしそうに子や孫やひ孫に話して聞かせるのである。(今はとても元気なのです)

 

スズコが5歳の時、1931年に満州事変が勃発、満洲全土を関東軍(大日本帝国陸軍)が占領し,1932年中華民国から独立を宣言し満州国となり、その帝国は1945年まで続いたのである。

 

 

1931年~1932年の満洲にはすでに60万人に近い日本からの移住者がおり、更に日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画していたというから驚きである。ただし、内地から満洲に移住した家族の多くは軍関係者あるいは満州鉄道および附属企業関係者とその家族であった。

 

 

そもそも両親が満洲に渡航したのがいつのころかは、スズコはっきりとは記憶していないという。

 

神戸から仕事で呉にやってきた父は庄屋の娘であった母と知り合い結婚,その後満洲に渡り、満鉄や昭和製鋼の仕事をして、鞍山では名を馳せたようである。

 

スズコは鞍山で行われた父親の立派な葬儀の写真をみせては、その栄耀栄華の時を懐かしそうに語って聞かせるのである。

また、スズコが学校を休みがちでも進級できたのは,父が今でいうPTAの会長のおかげだったのかもしれないとも語る。

 

満洲国は多民族共生の国家にするべく建設されたが、その外観は区画整備された舗装道路にロシア人の設計した建物などが整然と並び、それは洗練された都市であった。

 

また皇帝を国家元首としていたが、実際には関東軍が実権を握っており、日本人は下の写真にあるように満洲でのハイカラな生活を謳歌していたのである。

 

スズコの住んでいた鞍山市街地   満州写真館 鞍山・昭和製鉄所 より画像お借りしました。

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広い道路と街灯、規格の整った街並み、満州ならではの風景です。

 

 

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写真右上の看板「紙、文具」 画面中央左には「コドモヤ」

このコドモヤにはよく行ったと喜んでパソコンの中をのぞいていました。

 

スズコは気に入った洋服などを見つけたときは、父におねだりした。病弱なスズコに甘い父はすぐに自転車にスズコを乗せて、欲しいものを買いに連れてってくれたのだ。

スズコ曰く、母は始末屋なので姉たちのお古しか着せてくれなかったが、正月や桃の節句には子どもに晴れ着を着せた。着物を買う為に何度も日本に足を運んだそうだ。庄屋の娘として育った母は着ものに眼がなく、娘たちに晴れ着を着せては、町内を一回りしてこさせたのである。

スズコの脳裏には着物を買う為にシーツを2枚縫い合わせたリュックを背負っていた母の姿が鮮明に残っているという。

 

 

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

おばあちゃんのお話には脈絡が無いのでつなぎ合わせるのが大変です。

記録として忠実に書いてあげたいのですが…

 

鞍山の住まい

・     煉瓦造りの建物に二重窓

・     スチームにペチカ

・     水洗トイレ

・     クーニャンを雇っていた

 

幼少の頃のエピソード

・習い事の月謝が、途中立ち寄った本屋で本の代金となったことがしばしばある。   (普段、お金を持たされたことがないという…使ってみたかったんだろうか)

・近所の子を集めて演劇を練習し、兵隊さんの慰問に行った。

 (リーダーシップがある…強引だからねぇ)

・いつも部屋の隅で本を読んでいたおとなしい子であった。

  (本人はいってますが…どうだか)

 

鞍山の実家で後に夫となる兵隊のコジロウと出会い、ハルピンの官舎に1年未満住んでいたという。     

ロマンスなんか無かったというおばあちゃんの口がまた開いたらいつか続きを載せたいと思います。